パンチくんと愛着障害

パンチくんの姿に、自分を重ねた人はいませんか?


千葉県市川市動植物園で2025年の夏に生まれたニホンザルの赤ちゃん、パンチくんをご存じでしょうか。


まれた翌日から母ザルに育児放棄されたパンチくんは、飼育員の手でミルクを飲んで育ちました。飼育員がいくつかのぬいぐるみを与えたところ、パンチくんはオランウータンのぬいぐるみを選び、片時も離さなくなりました。飼育員たちはそのぬいぐるみを「オランママ」と呼んでいます。


引きずって歩き、抱きしめて眠り、大きなサルに追い回されて怖い思いをしたあとも、真っ先にオランママのもとへ駆け寄って抱きつく。その姿がSNSで拡散され、世界中から応援の声が届きました。


パンチくんはオランママが好きだから選んだのではありません。本物のお母さんがいないから、縋れるものが他になかったから、抱きしめているのです。


この姿は、育児放棄やネグレクトを受けて育った人間の子供に起きることと、本質的に同じです。





愛情の代わりを求めて

親から十分な愛情を受けられなかった子供の心には、深い穴が開きます。「自分は愛される価値がある」という感覚、「ここにいていい」という安心感、「怖いことがあっても大丈夫」という土台——これらが育たないまま大人になると、その穴を埋めようとして、様々なものに縋りつくようになります。


その「代わり」は、人によって違います。食べ物、お酒、SNSのいいね、特定の誰かへのしがみつき——形は違っても、根っこにあるのは同じです。食べている間だけ空虚が和らぐ。飲んでいる間だけ痛みが遠くなる。いいねが来るたびに、少しだけ「ここにいていい」と感じる。誰かのそばにいる時だけ、不安が静まる。


パートナーへの束縛も、返信が少し遅れるだけで「捨てられた」と感じてしまうことも、本物の安全基地が心の中に育っていないから起きることです。目の前の人を安全基地の代わりにしようと、必死になってしまう。パンチくんがオランママを手放せないのと、同じ姿です。



それでも「代わり」では埋まらない

でも、これらはどれも、本物の愛情の代わりにはなれません。


お酒を飲んでも、翌朝には空虚が戻る。いいねをもらっても、すぐに次のいいねが欲しくなる。誰かにしがみついても、不安は消えない。


オランママも同じです。体温がない。ミルクをくれない。パンチくんが怖くて泣いても、抱き返してはくれない。それでもパンチくんはオランママを離さない。今は、それしかないからです。


「これでは満たされない」と分かっていても、他に縋れるものがないから、離せない。やめたくてもやめられない。そのことで自分を責め、余計に苦しくなっていく。


お酒も、過食も、誰かへの依存も、それはあなたの意志が弱いからではありません。心の深いところにある愛情への飢えが、そうさせているのです。





愛着障害が残すもの

ネグレクトや育児放棄を受けて育った人の心には、大人になってからも消えない傷が残ることがあります。


一つは、「自分はいなくていい存在だ」という感覚です。赤ちゃんは泣くことで「ここにいる」と伝えます。親がそれに応えることで、「私は存在していい」という感覚が育まれます。


しかし何度泣いても誰も来なかった子供は、「自分は必要とされていない」という思いを心の奥底に刻んでしまいます。大人になって成功しても、誰かに褒められても、「どうせ私なんか」という声が頭の中から消えない。これは意地悪な自己評価ではなく、幼い頃に刻まれた傷です。


もう一つは、見捨てられる不安が常にあることです。誰かと仲良くなるほどに、「いつか捨てられる」という恐怖が大きくなる。


相手の態度が少し変わっただけで、「もう嫌われた」と感じてしまう。楽しいはずの時間の中でも、どこかに不安の影がある。これはパンチくんが、オランママを抱きながらも群れの中でうまくなじめずにいる姿と重なります。


そして、人を信頼することと、人との距離感が分からなくなることです。近づきすぎてしまうか、怖くて近づけないか。「どこまで頼っていいのか」「どこまで話していいのか」が分からない。人間関係の基準となるものが、幼い頃に育まれなかったからです。



パンチくんのこれから

今、パンチくんは少しずつ群れに溶け込もうとしています。大きなサルに怒られても、ケロッと立ち直って、またぐいぐいと仲間に近づいていく。飼育員は「メンタルが強い」と言います。オランママはまだ手放していないけれど、少しずつ、本物の仲間との関係を作り始めています。


傷ついてはオランママに戻り、また仲間に近づいていく。その繰り返しの中で、パンチくんは少しずつ「ここは安全だ」という感覚を育てているのかもしれません。



愛着は、大人になってからでも育て直すことができます。ただし、それには時間がかかります。そして大切なことは、「もっと努力しよう」「もっとオープンになろう」と頑張ることではありません。


パンチくんがオランママを抱きながら少しずつ仲間に近づいていくように、安心できる「よりどころ」を持ちながら、少しずつ人との関係に慣れていくことです。


信頼できる人との関係の中で、「この人は消えない」「ここにいていい」という体験を少しずつ積み重ねていく。最初は友人でも、パートナーでも、カウンセラーでも構いません。一人でいい。「この人といると安心できる」と感じられる関係が一つあれば、そこから愛着は少しずつ育ち始めます。


また、愛着を育て直す上で、親を恨む気持ちと向き合うことも必要になる時があります。「なぜ愛してくれなかったのか」という怒りや悲しみは、蓋をしても消えません。その気持ちを誰かに話せた時、あるいは自分の中でそっと認められた時、長い間固まっていた何かが少しほぐれていくことがあります。


ただし、「その歳で未だに親を恨んでいるの?」と言われ、自分自身で恨みを強く押し殺そうとしても、恨みはつよくなるだけです。あくまで自然に、時間をかけてゆっくりと向き合っていくことが大切です。


パンチくんがいつか、群れの中で安心して眠れる日が来ることを願っています。そして、パンチくんと同じような痛みを抱えて生きてきたあなたにも、「ここにいていい」と感じられる場所と出会いが訪れることを、心から願っています。